有田焼の人間国宝(当代・総合指定)酒井田柿右衛門の略歴・買取・販売・骨董品情報
柿右衛門の色絵はやはりその『余白の美』が特徴的ですね。
柿右衛門様式とその名が冠せられる独特の様式は、国内外で高く評価され続けています。
乳白色の素地に描かれた繊細な絵と余白との対比が絶妙で、日本画的な雰囲気ですね。
■歴代柿右衛門 略歴
現在の佐賀県西松浦郡有田町に移住した酒井田円西は、息子の喜三右衛門と陶器や白磁、
染付等の磁器を製作していた。やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功し、
柿右衛門を名乗った。初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという
柿右衛門様式と呼ばれる磁器の作風を確立し、作品はヨーロッパ等にも輸出されマイセン窯等では
模倣品も作られた。また磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯にも影響を与えた(景徳鎮伊万里)。
極めて技量が高かった初代~三代、さらに四代までが『初期柿右衛門』とされる。
続く五代は技量が芳しくなかったために鍋島藩からの恒常的な発注が差し止められたが、六代は
意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ高い水準で量産することに成功したため、
中興の祖とされる。その後、嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が用命されることとなった。
この一方で、高い技術が要されることなどから七代以降に濁手の作品は中絶してしまう。
五代から七代までが『中期柿右衛門』とされる。
八代、九代と十代は主に染付の磁器を製作した。七代~八代にかけては四角の中に福の字が入った
「角福(渦福)」と呼ぶ窯印を施したものが多い。これは明清の陶磁器に元々あったものである。
八代から十代までが『後期柿右衛門』とされる。
近代以降では、十一代は「角福」の商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮したが、
海外にも積極的な出品を行なった。1919年には出資する実業家の小畑秀吉と共同で十二代が
柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与した。しかしその後美術品の制作を志向する
十二代は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消した。以降それぞれが柿右衛門作品を制作し
長らく争っていたが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していない。
十二代と十三代は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表。
濁手の製作技術は1955年に国の選択無形文化財に選択され、
1971年には重要無形文化財に総合指定される(柿右衛門製陶技術保存会)
当代は1982年に十四代を襲名。
日本工芸会理事に就任し、重要無形文化財保持団体(総合指定)代表に就任。
1997年、佐賀県陶芸協会会長(現、名誉会長)2000年、有田陶芸協会会長に就任(現、名誉会長)。
そして2001年、個人でも重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定『色絵磁器』。
2006年、日本工芸会副理事長に就任(平成22年5月迄)。現在も精力的に作陶されている。
■柿右衛門様式
柔らかくて温かみのある乳白色の素地の上に、余白を十分に残した明るく繊細で絵画的な構図を
特徴とする色絵磁器。柿右衛門様式の色絵磁器は、国内はもとより国外でも高く評価された。
この「柿右衛門様式」は1690年代頃まで有田の色絵の流行様式となり、乳白色の素地だけでなく
青味を帯びた白磁や染付を用いた素地にも、同様の色絵を施したものが沢山作られるようになった。
■濁手(にごしで)
佐賀地方の方言で米の研ぎ汁のことを「にごし」と言い「濁手」は米の研ぎ汁の如く温かみのある
白色の地肌をもつ素地のことで、柿右衛門窯独特のものであり、独自の製法により作られている。
一般的な白磁がやや青味を帯びているのに対し、濁手は柔らかい乳白色を呈している。
そんな濁手も原料の入手や製作上の困難さ等により、江戸中期頃一度途絶えてしまう。
長い空白の後、十二代と十三代は、柿右衛門家に伝わる江戸時代の古文書を基に長い苦労の末
ようやくこれを復元、国の重要無形文化財の総合指定を受けるに至り再び高く評価される。