篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・美食家など万能芸術家の北大路魯山人の買取・販売情報
篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など様々な顔を持つ北大路魯山人。
多才な芸術家である故、気難しく性格的には天衣無縫で悪評が付きまとっていましたが、
型にはまらないその性格は数々の傑作を生み出し、そして愛され続けています。
■北大路魯山人 略歴
1883年(明治16年)現在の京都市北区に生まれる。6歳で木版師・福田武造の養子となる。
1903年書家になる事を志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。
1905年町書家・岡本可亭の内弟子となり、1908年から中国北部を旅行し書道や篆刻を学ぶ。
帰国後1910年長浜の河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打込む環境を提供された。
ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残す。
敬愛する竹内栖鳳が訪れる紫田家の食客になり、栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。
その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介して日本画壇の巨匠らとの交流が始まる。
1915年、福田家の家督を長男に譲り北大路姓に復帰。食器と美食に対する見識を深めていく。
そして1921年、会員制食堂「美食倶楽部」を発足。
自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。
1925年3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮」を借り受け、会員制高級料亭とする。
1927年には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立。
本格的な作陶活動を開始する。1928年には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。
1936年、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡される。
魯山人は星岡茶寮を追放され、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。
1946年には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。
また1951年に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。
1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
1959年に肝吸虫による肝硬変のため死去。
1998年、管理人の放火と焼身自殺で、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失。